[ml-wmc 60] from Eさん
今、子供たちがキレています。
子どもの世界は大人社会の縮図です。
子どもに夢がないのは、きっと大人に夢がないからです。
幸せの指標が、「モノの豊かさ」から、「こころの豊かさ」へと時代が移行しつつあります。
しかし、「こころ」の判断は、あまりに抽象的です。他人と比較してどうだ、といものでもありません。
大人たちがもっと夢を持ち、あるいは、一生懸命生きていれば、その姿を見て育つ子どもたちに、きっと届くものがあると思います。
どんなことでも、一生懸命なひとの顔というのは、泣いていても、笑っていても、怒っていても、輝いてみえます。きっと「未来からくる演奏家を聴く会」には、そんな「輝き」がたくさんあるのでしょうね。
親の「輝き」を感じ取ることができれば、子どもたちは、キレたりしなくなるに違いありません。
クラシックは、私にとって趣味のひとつであり、そして「生涯学習」の中の、重要な要素のひとつなのです。
「音学」ということを少し書きましたが、音楽を少し学問的に知っていれば、「共通語」を持つことができると思うのです。
音楽を聴いている瞬間は、もちろん楽しいのですが、その後に、仲間たちとその演奏会の批評をするというのも、やはり楽しいものです。
映画などは、まさにそうだと思います。オペラなどなら、「私はミミ、よかったね」くらいのことは言えるかもしれませんが、交響曲などになると、「第2楽章の第2主題が盛り上がっていくところ、あのヴァイオリン、よかったね」
というのは、素人の私にはちょっと難しい。全体の演奏を「よかった」とか「熱い演奏だった」みたいな感想になってしまいます。
それだけでも十分ですが、ちょっとの知識が「共通語」となって、話が進むと思います。
ただ、実際に楽器を練習する以外、
音楽のことを学ぼうと思うと、
ひたすら聴き込むか、誰か個人的に聞くか、書籍に頼るしか方法がないように思います。
「通信教育の講座作ったら?」と言われてしまいそうですが。要するに、今のところ、クラシックにおける「共通語」を共有することが難しく、「会員制」のような高貴な趣味になっているように思います。
[ml-wmc 61] from Aさん
子どもの世界は大人社会の縮図です。(by Eさん)
まあそうでしょうね。
子どもに夢がないのは、きっと大人に夢がないからです。(by Eさん)
夢が無い人がそんなに多いとは思いませんが・・・
大人たちがもっと夢を持ち、あるいは、一生懸命生きていれば、その姿を見て育つ子どもたちに、きっと届くものがあると思います。(by Eさん)
このへんは、それほど単純ではない様に思います。ただ、現在の中高生に関して、一般的に言えることは、その親達のそのまた親(中高生から見れば祖父母)が、戦後の価値観の激変によって、子供のしつけに自信を無くした世代だと思います。そのため、今の親世代は、子供をしつけると言うことを、身を持って体験していないので、旨くしつけられなかったのではないかと思います。今の親世代は、善し悪しはともかく、自分と家族の生活水準を向上させるために、長時間残業も、転勤も厭わず一所懸命生きて来た人たちだと思います。これまで、報道されている限り、犯罪を犯した子供の親達が、ふしだらな生活をしていたと言うより、まじめに一所懸命生きて来てきた人が大部分のようだと見ていますが・・・
親の「輝き」を感じ取ることができれば、子どもたちは、キレたりしなくなるに違いありません。(by Eさん)
半分は同感、半分は上記の通り、物心がつく前から、きちんと躾をしないとだめだと思います。
クラシックは、私にとって趣味のひとつであり、そして「生涯学習」の中の、重要な要素のひとつなのです。(by Eさん)
人である限り、死ぬまで学習は続けたいですね。
音楽を少し学問的に知っていれば、「共通語」を持つことができると思うのです。・・・(中略)・・・
ちょっとの知識が「共通語」となって、話が進むと思います。(by Eさん)
知識はあったほうが良いと思いますが、知識をひけらかしたり、知識が無いから、音楽そのものの楽しみが分かっていないなどと言う様な風潮が、特にクラシック界にあることが、悲しいのです。
ただ、実際に楽器を練習する以外、音楽のことを学ぼうと思うと、ひたすら聴き込むか、誰か個人的に聞くか、書籍に頼るしか方法がないように思います。(by Eさん)
楽器だけではなく、歌でもMIDIでも、実際に演奏を他人に聞いてもらおうとすると、勉強せざるを得ないようなところがありますね。ただ漠然と勉強するより、何か具体的な曲を演奏する立場になって、調べると、天才でもない限り、いやでも楽式論から始まって、種々の知識を得ることになるのではないかと思います。CDなどで、他人の演奏を参考にする時にも、CDに付属する解説書に書いてある言葉をきちんと理解するように勤めれば、自然に勉強してしまうのではないでしょうか。
とは言っても、やはり音楽は、知識ではなく感性だと思います。言語の世界でも文法や文章作法などの知識よりも、相手に、自分の思いがどこまで伝わるかが重要だと思います。
「通信教育の講座作ったら?」と言われてしまいそうですが。(by Eさん)
他人に教えることが、最も良い勉強法とも言われます。やって見られては、いかがですか?
[ml-wmc 62] from Bさん
こういう話題には私は発言せずにいられないので、書かせていただきます。
これは非常に大切なことだと思っています。
ただ、もし音楽を「音学」として、もう少し知識があれば、より楽しめるのではないかというのも、本音です。(by Eさん)
私は、知識の集積と音楽を「楽しむ」こととは別のことだと思っています。音楽を楽しむとは、もっと本能的なものではないでしょうか。例えば私達は、おいしいものを食べた時、心から「ああ、おいしい」と思い、心からその感覚に酔いますね?あるいは、素晴らしい絵画を観た時、心が昂揚しますね?その瞬間を素直に受け入れることで今までの自分と違う何かが生まれるはずです。クラシック音楽においてもそれは同じことではないでしょうか。例えばですが、私はショパンのプレリュードOp.28の中で恋人と別れ、独りかつて楽しい時を過した場所に戻ってくるショパンの切ない気持ちが表現されている曲を演奏する際、まるで憂愁の色合いの夕日に身を浸しているような気がいたします。そういうこととを感じる瞬間は、例えば変ロ長調で、形式がどうしたとか、そういうことは一切関係がないと思っています。
クラシック音楽自体が、どうしても元々西洋のものなわけですから、日本で根付くかどうか、馴染むかどうかというのも、まだ過渡期という気がしないでもありません。(by Eさん)
それは、お気持ちもわかりますが、そこまでお考えを馳せる必要はないのではないでしょうか。音楽とはそもそも、ひとりひとりの心の中に何かを灯すことができればそれで成功だと思います。またその時国境も時間も飛び越えうるものだと思います。だからこそ現在でも、100年も200年も前のヨーロッパの音楽が説得力を持ち得るわけです。
たとえば、「クラシックコンサート」のイメージは、多くの人たちにとって、まだまだ「タキシードに蝶ネクタイ」だと思います。(by Eさん)
そういうスタイルを気に入ってクラシックのコンサートに足を運んでくれる人たちがいればそれはそれで、結構なことだと思います。クラシックにはそういうスタイリッシュな面もたしかにあると思いますから。問題はそこから先何を感じられたか、(別にそれはきれいな格好でなくても構わないと思いますが)ということですよね。
逆に、「ブランド」を頼りにコンサートを選ぶということになりがちです。クオリティという面で安心ですから。(by Eさん)
これはお言葉をかえす様ですけど、(どうかお気を悪くなさらないでくださいね)「ブランド」は必ずしも当てにならないと思います。もちろん評価と実力の一致している人もたくさんいますが、ブランドの上にあぐらをかき、悪い演奏がメディアで垂れ流しにされて平気でいる人もいます。その現状を浄化するには、やはり自分の感性と耳を頼りにすること以外手段がないと思います。Aさんもおっしゃる様に、価値観が人それぞれなのは当たり前ですから、勇気をもって自分の感覚を信じることが最良であると思います。
そのためか、モーツァルトあたりが馴染みやすい。お袋の味噌汁が一番おいしいと感じるように。(by Eさん)
そういう感覚こそが、素晴らしいと思います。是非大事にして下さい。(ホントに!)私自身はモーツァルトは非常に激しい音楽であると思います。以前TVで日本人の著名なピアニストが、「モーツァルトはシンプルで、一音たりとも無駄に出来ないので難しい」と言っていましたが、私はそれだけでは不十分に感じます。(そんなのんびりしたことじゃ音楽にならないんですよ!!)最もシンプルでかつ、そこに最も激しい感情が盛り込まれているので難しいのだと思います。(と、最近気が付きました。)
[ml-wmc 63] from Hさん
ハードロック(ヘビーメタル)は私が好んで聞くジャンルですが、このジャンルの中でオッと思う曲を書く人には楽譜を読むことも書くことも全くできない人が多いことを聞く度に驚かされます。そのような音を聞いてぐっとくる場合には、まさに感性から紡ぎ出された音が聞く人間に響いているのだな、と思えます。
このオッと来る感覚をクラシックにあてはめられるか、と考えてみるとそうでもないように思えます。クラシックを聞いてぐっときたときに、私がハードロックを聞く場合と同様に、最初はその感覚を享受することに楽しみを感じるかもしれません。しかし、録音など音を記す技術が発達した時代の人が音を紡ぎ出すように昔の人がメロディーを考え出してそれを残したとは到底思えません。
音を文字に例えれば、楽譜は昔の人の(特に音楽という表現手段をとったひとの)文章だとおもいます。きっと、作家が血のにじむような努力をして最もふさわしい表現を作品の中にしるすように、昔のひとは音のつながりを何度も何度も修正してやっと完成したものではないのでしょうか?
だから、クラシックが、感性に訴えるものだけで100年も200年も生き残ってきたとは到底考えることができません。クラシック音楽がささいと思えることまで立ち入られ、しゃぶられて来たのは、「筋書きの良さ」の他に「表現の良さ」があるからではないのでしょうか。そして、この「表現の良さ」を楽しむこと(その表現にはどんな効果があるのか、どうやってその表現にたどり着いたのかなどを考えること)に何の異論があるのでしょうか。
こういう私の考え方からすると、クラシック音楽の演奏者は、例えれば文学作品を朗読する人なのです。表現の妙を誰よりも味わいつくして、(演奏者(朗読者)の演奏(朗読)の仕方に対して聴者の好き嫌いはあるにせよ)その表現を如何にして人に伝えるかが重要なのだと思います。
というわけで、まとめ・・・
楽譜を読めないハードロックを演っている友人に、「クラシックのひとって新しい曲を生み出す訳ではないのに、なんでレコード売れるの?」と(皮肉を込めてではなく)素朴に聞かれたときに、返答にこまって考えた結果が以上です。
いろんな人の意見を聞いてみたいです。
[ml-wmc 65] from Aさん
このオッと来る感覚をクラシックにあてはめられるか、と考えてみるとそうでもないように思えます。(by Hさん)
私は、違いがあるとは思いません。バッハやモーツアルトの伝記を読みますとまずは、楽譜とは関係なく演奏して、後で、楽譜を作っています。それも、バッハのように、自分ではなく、奥さんに書かせたりすることもあったわけで、奥さんが、歩く録音機の様なものだったのでは・・・
独奏曲や小人数の合奏のときは、それが可能ですが、大編成の曲を作ろうとするとそうも行きません。だからといって楽譜が必要不可欠だと言うわけでもないと思います。今は、ディジタル録音やMIDIなどの手段が使えますので、楽譜など無くとも間にあいます。
バッハやモーツアルト、特に、新しもの好きのモーツアルトが今生きていれば、楽譜など書かないかもしれませんね。
昔のひとは音のつながりを何度も何度も修正してやっと完成したものではないのでしょうか?(by Hさん)
ヘビメタの世界でも同じですよ。何度も何度も皆で合わせて、やり直し、作り直してコンサートに臨んでいますよ。
だから、クラシックが、感性に訴えるものだけで100年も200年も生き残ってきたとは到底考えることができません。(by Hさん)
これも同意できません。200年前に作られた曲が、100年前に演奏されたときは、その時代の人の感性に合うように手直しをし、200年前とは違った解釈と演奏方法で演奏したと思います。200年前に作られた曲を現在演奏するときには、今生きている人たちに合うように変えられているわけで、特に楽器や演奏会場などは、当時のままとはいかないわけです。演奏方法など楽譜では表しきれない要素もたくさんあります。
クラシック音楽がささいと思えることまで立ち入られ、しゃぶられて来たのは、「筋書きの良さ」の他に「表現の良さ」があるからではないのでしょうか。そして、この「表現の良さ」を楽しむこと(その表現にはどんな効果があるのか、どうやってその表現にたどり着いたのかなどを考えること)に何の異論があるのでしょうか。(by Hさん)
そのようなことを考えることに異議を唱えるつもりはありませんが、そんなことを考えなくとも楽しければ、あるいは感動できれば良いと思います。
こういう私の考え方からすると、クラシック音楽の演奏者は、例えれば文学作品を朗読する人なのです。表現の妙を誰よりも味わいつくして、(演奏者(朗読者)の演奏(朗読)の仕方に対して聴者の好き嫌いはあるにせよ)その表現を如何にして人に伝えるかが重要なのだと思います。(by Hさん)
それは、そのとおりだと思います。でも、それはヘビメタでも同じでしょう。
他のもので、例えるなら、楽譜は、脚本。指揮者は、演出家。演奏者は、俳優。と言うのはいかがですか?
というわけで、まとめ・・・
楽譜を読めないハードロックを演っている友人に、「クラシックのひとって新しい曲を生み出す訳ではないのに、なんでレコード売れるの?」と(皮肉を込めてではなく)素朴に聞かれたときに、返答にこまって考えた結果が以上です。(by Hさん)
クラシックだって新曲はたくさんありますよ。ただ、比較すると過去の財産があまりにも多いだけではないでしょうか。
[ml-wmc 67] from Bさん
クラシックを聞いてぐっときたときに、私がハードロックを聞く場合と同様に、最初はその感覚を享受することに楽しみを感じるかもしれません。しかし、録音など音を記す技術が発達した時代の人が音を紡ぎ出すように昔の人がメロディーを考え出してそれを残したとは到底思えません。(by Hさん)
ヘビーメタルのぐっとくる感覚とは発達した録音技術の時代のたまものばかりではないのではないですか?それこそがその音楽の魂=beat というものでしょう。クラシックにもクラシックの深いビートがあり、メロディだけでなく、そこに伴う響き(和声、とは言いたくないですね。)もがひとを感動させるのだと思います。それは、録音技術とは関係無く、何百年前だろうと、現在だろうと、演奏されるその時に始まるわけですよ。それが、音楽独自の面白いところじゃないですか?
音を文字に例えれば、楽譜は昔の人の(特に音楽という表現手段をとったひとの)文章だとおもいます。きっと、作家が血のにじむような努力をして最もふさわしい表現を作品の中にしるすように、昔のひとは音のつながりを何度も何度も修正してやっと完成したものではないのでしょうか?(by Hさん)
なるほど。面白いですね。ただ私はどちらかというと、K.T.さんと逆に楽譜が文字で、発される音の方が文章(つまり、作曲者の言いたいこと)のように感じますけど。音を創っている瞬間は視覚すら、邪魔になります。(聴覚と、肉体の内的な感覚に精神を集中しますので。)楽譜は作曲家の考えを、音そのものに変換してくれる、手段のように感じます。だからこそ、譜が読めなくとも、つまり変換機を通さなくても、感動的な音楽を書ける人が存在するのではないですか・・?
だから、クラシックが、感性に訴えるものだけで100年も200年も生き残ってきたとは到底考えることができません。クラシック音楽がささいと思えることまで立ち入られ、しゃぶられて来たのは、「筋書きの良さ」の他に「表現の良さ」があるからではないのでしょうか。
そして、この「表現の良さ」を楽しむこと(その表現にはどんな効果があるのか、どうやってその表現にたどり着いたのかなどを考えること)に何の異論があるのでしょうか。(by Hさん)
これは、ちょっと私の言葉が足りなかったと言いますか、伝えきれなかったなと思います。
音楽の理論の部分そのものを否定したわけじゃないのです。偉大なクラシックの作曲家は理論に関しても恐らく常人の理解を超えるほど知り尽くしていたと思います。その点でHさんに全く異論はないです。ただ、それをひとに分析してもらいたくて音楽を書いたわけではないと思うのです。もっと言葉にならない、音でしか表現できない、心の奥の何物かがあって、その衝動が、彼らに音楽を書かせたと思うのです。そしてその素晴らしい財産をわれわれが味わうには、雑念を捨て去り、心を開いて、その中に身を置く以外にないと思うのです。「まず知識を得ないと、音楽が楽しめない」というのは、雑念そのものであると思い、私は憎みます。
表現という言葉がでましたが、私にとっての表現とはピアノの演奏です。演奏に関しての純粋に理論的な部分は必要不可欠であると考えます。
具体的に申しますと、ピアノを通して自分の身体に起こる現象と音楽そのものとの関係について、関節のひとつひとつにいたるまで、またそこを通るエネルギーの流れまで理論的に把握していなければ、実際弾けませんし、私が今現在やれている範囲までのことは説明できます。でも、そんなこと説明したって、ちっとも面白くないし、素敵じゃないと思うんですよ。
表現とはそういった理論的なことを考えている段階をふんで、昇華されなければ、幼稚なままで終ってしまうと思うのです。私は自分のコンサートの時うまくない文章で解説も書きますが、お客様がその曲の情景を想像し、演奏に入り込んでいきやすくなること以外意図的に書かないようにしています。しかし、それを読んだ方にわたしが何にも理論的に考えていないと誤解されることもよくあり、そのたびがっくりきます。
全くなんとかならないものですかね。
[ml-wmc 74] from Eさん
私はクラシック音楽を聴きはじめて、まだ3年にも満たないくらいです。
元々、当時つきあっていた彼女に感化されたというナンパ野郎です。
「ラフマニノフ・ピアノ協奏曲第2番(ピアノ:アシュケナージ)」にはまりまし
た。
モーツァルトも好きですが、バッハも好きです。というよりも、現代音楽の難解な辺りを除けば、あまり好き嫌いはありません。クラシック音楽は、うれしいとき、かなしいとき、元気になりたいとき、どんなときにも、心に届く曲があるように思います。バッハの曲を聴くと、とても落ち着いた気持ちになります。モーツァルトの曲を聴くと、とても楽しい気持ちになります。ワーグナーの曲を聴いて、元気を取り戻すことができます。気持ちがぐるぐるしているときに、あえて、ラフマニノフを聴いたりもしますが。
前回のメールで、「生涯学習」ということを少し書きました。
それは、一言で言うなら、「一生懸命になれること、こころから楽しいと思えること」そんな何かを持ち、取り組んでいくことだと思っています。
今の大人たちは、もちろん一生懸命生きてきた人がほとんどです。ただ、「一生懸命=仕事の忙しさ」になっているように思えます。「本当に好きなこと、楽しいと思えること」を自分に言い訳することなくできているか、ということです。仕事とやりがいが一致している人は幸いですが、決してそれほど恵まれた人は多くない。
クラシック音楽(もちろんクラシックに限らずですが)は、「こころから楽しい」と感じられるとてもすばらしいものだと思っています。もっともっとたくさんの人に、そのすばらしさを知ってほしいと思います。
曲を聴いて感動した。その次にくるのは何でしょう?その感動を分かち合いたい。誰かに伝えたい。あるいは、その曲のことをもっと知りたい。自分で演奏したい。
「音学」を学んでから「音楽」を聴く、というよりも、「音楽」を聴いて、「音学」を学びたくなる。感動を分かち合うための「共通語」、曲の作者や構成など・・・それが自然な流れであり、まさに「学習」あるいは「楽習」ということです。
ただし、現状、素人の私からすると、その感動をどこに向けていいのか、どう深めていいのか、よくわからないのです。
以前 Aさんが、「愛好家の底辺を底上げする」というようなことをお書きになっていましたが、私はそのあたりの整備が必要なのではないかと思います。
音楽をこころで感じること。
もちろんそれは音楽だけではなく、とても素敵な宝物です。
[ml-wmc 77] from Aさん
今の大人たちは、もちろん一生懸命生きてきた人がほとんどです。
ただ、「一生懸命=仕事の忙しさ」になっているように思えます。「本当に好きなこと、楽しいと思えること」を自分に言い訳することなくできているか、ということです。(by Eさん)
なるほど、そういう意味では、「仕事が忙しいこと=社会に貢献していること」と理解して、いつのまにか「本当に好きなこと、楽しいと思えること」が仕事だと思い込んだ結果、自分に言い訳することもなくなっているのではないでしょうかね。
仕事とやりがいが一致している人は幸いですが、決してそれほど恵まれた人は多くない。(by Eさん)
上で述べました様に、仕事が趣味だと思い、そう断言している人もある年代の人では、かなりの数、おられますよ。
#その人たち、退職後は、どうなるのでしょうかね。
「音学」を学んでから「音楽」を聴く、というよりも、「音楽」を聴いて、「音学」を学びたくなる。感動を分かち合うための「共通語」、曲の作者や構成など・・・それが自然な流れであり、まさに「学習」あるいは「楽習」ということです。(by Eさん)
全く、同感です。
ただし、現状、素人の私からすると、その感動をどこに向けていいのか、どう深めていいのか、よくわからないのです。(by Eさん)
そうなんですよ。私が、こんな試みを始めたのも、なにか見つかるのでは、と期待してのことです。
以前 Aさんが、「愛好家の底辺を底上げする」というようなことをお書きになっていましたが、(by Eさん)
私は、愛好家の底辺を「広げたい」と言ったのですが、「底上げする」のも出来れば良いですね。
私はそのあたりの整備が必要なのではないかと思います。(by Eさん)
難しい命題ですが、少しでも前進するように、努力したいと思っています。
よろしく、ご協力のほどを m(_ _)m
音楽をこころで感じること。もちろんそれは音楽だけではなく、とても素敵な宝物です。(by Eさん)
いいことを言いますね〜
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