メーリングリストの話題から

 

 ここでは、WMCのメーリングリストでどのような情報交換がされているかを知って頂くために、話題になったいくつかのテーマについて、紹介しております。

 出来るだけ、メーリングリストの雰囲気を伝えられるように、投稿されましたメール本文をそのまま引用することを原則としていますが、冗長と思われる個所や、個人的な情報に関わる場所などを主催者の責任で削除、改変しております。

 WMCのメーリングリストでは、ここに紹介しましたテーマ以外にも、音楽、あるいは、インターネットを利用した情報交換に関することが多岐にわたって、議論されております。

 ご自分のコンサートやホームページの宣伝も、誰に聞けば良いかわからないような質問もOKです。あなたも参加されませんか。

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(C)1998 ml-wmc,all rights reserved. ここに掲載されております記事の著作権は、各投稿者に帰属します。
有名な音楽家しか客が呼べない〜日本人のブランド指向について〜

[ml-wmc 51] from Aさん

ウエッブにも書きましたが、「未来からくる演奏家を聴く会」のような会を続けるための大きな障害は、日本人のブランド志向にあるようです。

無名な音楽家の演奏など「ただ」でも聞きたくない人が多いと言う現実です。 自分の耳と感性を信じないで、他人のうわさの方を信じると言う日本人の気質は、何時ごろ形成されたのでしょうか?

[ml-wmc 53] from Bさん

おっしゃる通りのことを日頃から痛感しています。
しかし、不思議なことに音楽雑誌などではそのような趣旨の意見にお目にかかることは全くといっていいほどないように思いますので、Aさんの勇気ある発言に思わず拍手です。
私は演奏会をする立場の人間で、お客さんには楽しんでいただけるものを(あらゆる意味で)と願い、日夜苦労を重ねています。

「楽しむ」とは「自分の耳と感性」を信じることで、誤解を怖れずいえば音楽なんてそれだけでいいじゃないか、と私は思いますが、日本では、その大事な基本的なことが何故だかストレートに伝わっていかないのですね。

結局クラシック音楽そのものが日本ではブランドで、「楽しむ」ことは軽蔑され、学校の勉強のように小難しく、やたらと意味ありげに批評するのが好まれているのだと思います。クラシックにおいては皆「楽しむ」ことに突然不器用になってしまうんですよね。

私はフランスのニースでのコンサート(いろんな国のいろんな楽器の人が出る)に出たことがありますが、お客さんは短パンにサンダル履きでふらっとくる人も結構いて(もちろん誰が演奏するかなんて知らないで来ているのです)、拍手が本当にあたたかく、またつまらない演奏なら正直に不満そうな態度をとるのを見て心からうらやましくなりました。

日本でそうならないのは、はっきりいって演奏家の側にも問題があると思います。
プログラミングにしても、その曲を選んだ必然性が少なければ、お客さんが魅力を感じるのは難しいしまたサービス精神も、ある人が少ないと思います。
パンフレットの曲目解説等も読むたびにあんまり意味の無い理屈ばかり書いてあって退屈なので「一体誰が読むと思って書いている文章だ!」と怒りを感じることもよくあります。

えらそうに述べ立ててしまいましたが自分への自戒も込めて、演奏する側と聴く側が自然にコミュニケーションできるような魅力あるコンサートがもっと日本で増えていくことを願います。

[ml-wmc 55] from Aさん

「楽しむ」とは「自分の耳と感性」を信じることで、誤解を怖れずいえば音楽なんてそれだけでいいじゃないか、と私は思いますが、(by Bさん)

私が、WMCを始めましたのも、それが動機です。

結局クラシック音楽そのものが日本ではブランドで、「楽しむ」ことは軽蔑され、学校の勉強のように小難しく、やたらと意味ありげに批評するのが好まれているのだと思います。(by Bさん)

それで思い出しましたが、江戸時代の初め頃までの日本人とその後の日本人では、まるで違う国の人のように文化や倫理に関する考え方が変わりました。信長がいた時代に来日した宣教師のルイスフロイスが書いた当時の日本文化は、今とは、全く違っています。 これは、徳川幕府の政策によって変えられたものだと思いますが、その後の明治時代にも受け継がれ、特に明治時代以降は、外国の文化を学ぶことが良いことになりました。その後、排外的な思想が盛んになった時期がありましたが、その時も、仕事や勉学に励む人は良い人で、音楽を楽しむ人は、非国民と言う時代でした。
第2時世界大戦後も、外国に追いつけ追い越せ、寝る間も惜しんで働く人(学ぶ人も)は良い人、絵画や音楽などの芸術も学問として学ぶ人は良い人で、楽しむ人は悪い人と言うブランド指向とは別の価値観も左右しているようですね。

クラシックにおいては皆「楽しむ」ことに突然不器用になってしまうんですよね。(by Bさん)

これは、学校の勉強でしか接しないからではないでしょうか?ポップスなどでも、ブランド指向は変わりませんが、結構楽しんでいるのは、音楽だからでしょう。
普通の人にとって、クラシックは、音「楽」ではなく、音「学」なんですよね。

私はフランスのニースでのコンサート(いろんな国のいろんな楽器の人が出る)に出たことがありますが、お客さんは短パンにサンダル履きでふらっとくる人も結構いて(もちろん誰が演奏するかなんて知らないで来ているのです)、拍手が本当にあたたかく、またつまらない演奏なら正直に不満そうな態度をとる(by Bさん)

私も同様の体験をドイツでしました。アメリカでプロのバイオリニストの卵をやっている知り合いの女性もそんな事を言っていました。日本以外はみなそのようですね。
そういえば、日本でもクラシック以外はそうですね。

日本でそうならないのは、はっきりいって演奏家の側にも問題があると思います。(by Bさん)

クラシック音楽関係者は、ほとんど全員でしょう。(社)日本クラシック音楽マネイジメント協会の会員の音楽事務所の大部分の人たちにも、私は良い印象を持っていません。彼らは、愛好家の底辺を広げることが自分たちの商売にもつながると言うことを全く理解しようともしていません。

パンフレットの曲目解説等も読むたびにあんまり意味の無い理屈ばかり書いてあって退屈なので「一体誰が読むと思って書いている文章だ!」と怒りを感じることもよくあります。(by Bさん)

同感

長くなってすみません(こういう話だとつい興奮してしまう)(by Bさん)

これも同じ、なんとか無理をしなくても出来る範囲で改善したいものです。

[ml-wmc 58] from Dさん

無名な音楽家の演奏など「ただ」でも聞きたくない人が多いと言う現実です。 自分の耳と感性を信じないで、他人のうわさの方を信じると言う日本人の気質は、何時ごろ形成されたのでしょうか?(by Aさん)

 確かに、Aさんの言われることを私も感ずることがあります。音楽に限らず、演劇、落語、舞踊等でもこのことがあてはまるのでは無いでしょうか。 さらに、クラシック音楽の特殊性がそれに輪をかけます。上手く考えがまとめらないのですが、まだクラシック音楽には西洋アレルギーと言うものがあるような気がします。 どうも、日本人の演奏するクラシック音楽よりも、西洋人の弾くクラシック音楽の方が本物だ。というような、気持ちを持つ人がまだ多いのかなと思います。私も、「未来からくる演奏家を聴く会」に関わる前は、典型的な日本人気質だったような気がします。
 いまでもヨーロッパに旅行に行くと、演奏家の名前に関係なく、毎晩のようにクラシックの演奏会をさがしては、訪れるのですが、日本にいるとどうもそう言う気が起きません、私だけかもしれませんが、、、、、、、


 「未来からくる演奏家を聴く会」に出演頂くかたの中には、これが初めてのリサイタルといった方もいます。全プログラムを演奏し終わって、感極まって涙を流す演奏家を見るたびに続けられる限りこの演奏会を続けていこうという思いを新たにします。
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クラシック音楽と知識について〜知識が無いからブランドに頼る?〜

[ml-wmc 56] from Eさん

私自身は、クラシックを聞きはじめて日が浅いのですが、クラシックを楽しんでいる方だと思います。
ただ、もし音楽を「音学」として、もう少し知識があれば、より楽しめるのではないかというのも、本音です。

クラシック音楽自体が、どうしても元々西洋のものなわけですから、日本で根付くかどうか、馴染むかどうかというのも、まだ過渡期という気がしないでもありません。
日本の作曲家の曲が「クラシック」になるには、まだまだ時間がかかるでしょうし。(もちろん、「クラシック=古典」という意味ではありません)

たとえば、「クラシックコンサート」のイメージは、多くの人たちにとって、まだまだ「タキシードに蝶ネクタイ」だと思います。

クラシックは、詞がないことが多いし、あってもほとんどが外国語です。 しかも、1曲が長い。
普通のポップスのように、いいとか悪いというのも難しい。
「自分の耳を信じる」に至るには、相当聞き込まなければ難しい。
まだ、そこまで到達していないと、
逆に、「ブランド」を頼りにコンサートを選ぶということになりがちです。
クオリティという面で安心ですから。

クラシックを聞きはじめて、最初に「いい曲」だと思うのは、曲の善し悪しというよりも、聞いたことがあるか、耳に馴染んだメロディかどうか、ということのような気がします。
そのためか、モーツァルトあたりが馴染みやすい。お袋の味噌汁が一番おいしいと感じるように。

若手の育成という面では、音楽の世界についてよく知りませんが、どんな世界でも「自分の好きなことをやって生きていくのは難しい」と思いますし、ましてや、それで食っていこうというなら尚更です。努力している人は大いに応援したいと思いますが、「自分の道は自分で拓く」のが基本だと思います。

私自身は、クラシックはひとつの趣味で、スタンダードなので、焦ることなく、ライフワークのように、少しずつ聞いていけばいいと思っています。

生意気を書きました。すいません。
多くの人の意見がきいてみたいです。

[ml-wmc 57] from Aさん

ただ、もし音楽を「音学」として、もう少し知識があれば、より楽しめるのではないかというのも、本音です。(by Eさん)

私が、音「学」と言ったのは、やりたくもないのにやらされる対象としての「学」のつもりでした。このような情報媒体での議論の難しさを感じます。

クラシック音楽自体が、どうしても元々西洋のものなわけですから、日本で根付くかどうか、馴染むかどうかというのも、まだ過渡期という気がしないでもありません。(by Eさん)

この件につきましては、多少見解が異なります。クラシック以外のジャンル、例えば、ロックやジャズ、それにいわゆる和製ポップスを楽しむ人々を見る限り、「元々西洋のものなわけですから、日本で根付くかどうか、馴染むかどうか、」と言う感じがしません。
世界中で活躍している音楽家の中における日本人音楽家を見ますと、他のジャンルよりクラシックの方が圧倒的に評価の高い人が多い様に思うのですが、このことと楽しむ人の少なさの落差をどう考えるか・・・

たとえば、「クラシックコンサート」のイメージは、多くの人たちにとって、まだまだ「タキシードに蝶ネクタイ」だと思います。(by Eさん)

そうなんですよね。そのようなコンサートがあっても良いとは思いますが、常にそう思われるのはね。

クラシックは、詞がないことが多いし、あってもほとんどが外国語です。 しかも、1曲が長い。
普通のポップスのように、いいとか悪いというのも難しい。
「自分の耳を信じる」に至るには、相当聞き込まなければ難しい。
まだ、そこまで到達していないと、(by Eさん)

これは、後の話しとも関連しますが、そこまで到達するとかしないとか言う話しではない様に思います。素直に感じたままで、面白くないものは、面白くないと言って良いと思います。(たとえ、それが名曲の誉れが高くとも、そして、後になってみると確かに面白い曲だと、感じ方が変わっても良いではないですか)

クラシックを聞きはじめて、最初に「いい曲」だと思うのは、曲の善し悪しというよりも、聞いたことがあるか、耳に馴染んだメロディかどうか、(by Eさん)

私も良い曲と悪い曲があるとは思いませんが、興味深い曲、感動する演奏、楽しい曲などに対して、聞きつづけたいとは思わない曲、態度の悪い演奏、楽しいとは思えない曲などはあります。

そのためか、モーツァルトあたりが馴染みやすい。お袋の味噌汁が一番おいしいと感じるように。(by Eさん)

ゲームのドラゴンクエストに使われているすぎやまこういちさんの曲は、クラシックと言えるのかどうか分りませんが、私は、クラシック音楽だと思っています。このゲームをやった子供たちには、これが、お袋の味噌汁のようで、N響が演奏したドラゴンクエスト組曲のCDは、それなりに、良く売れたそうですね。

若手の育成という面では、音楽の世界についてよく知りませんが、どんな世界でも「自分の好きなことをやって生きていくのは難しい」と思いますし、ましてや、それで食っていこうというなら尚更です。努力している人は大いに応援したいと思いますが、「自分の道は自分で拓く」のが基本だと思います。(by Eさん)

そのとおりだと思います。努力をすれば、報われる確率が高まるようにしてあげるのが支援で、自分の努力の少なさを棚に上げて、他人を頼りにする人などは論外です。

私自身は、クラシックはひとつの趣味で、スタンダードなので、焦ることなく、ライフワークのように、少しずつ聞いていけばいいと思っています。(by Eさん)

人それぞれ、どうするのが良いかは、最後には自分の責任で決めるわけで、他人がとやかく言う問題ではないですよね。

生意気を書きました。すいません。(by Eさん)

どうも日本人は、議論が下手で、ある人の意見に反対意見を述べると、その人の(意見ではなく)人格そのものを否定したようにとられかねません。これでは、Aの意見に対するBの意見があり、議論の結果、AよりもBよりも優れた意見Cに到達する(これを止揚と呼んでますが、本来の日本語には無い概念ですね)と言うようなことは望めません。
少なくとも、このMLでは、意見そのものを批判することはしても、その意見を言った人を非難することは止めましょう。生意気などと言うのは意見を言った人に対して言うものですから、この際、(ある面では、日本的で良い習慣かも知れませんが、)そのような、気遣いをしないで言いたいことを自由に言えるようにしましょう。

多くの人の意見がきいてみたいです。(by Eさん)

私も、ぜひ聞きたいと思います。
異なった角度からの意見が多ければ多いほど勉強になりますね。

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音楽の楽しみ方〜知識が無ければ楽しめない?〜

[ml-wmc 60] from Eさん

今、子供たちがキレています。
子どもの世界は大人社会の縮図です。
子どもに夢がないのは、きっと大人に夢がないからです。

幸せの指標が、「モノの豊かさ」から、「こころの豊かさ」へと時代が移行しつつあります。
しかし、「こころ」の判断は、あまりに抽象的です。他人と比較してどうだ、といものでもありません。

大人たちがもっと夢を持ち、あるいは、一生懸命生きていれば、その姿を見て育つ子どもたちに、きっと届くものがあると思います。

どんなことでも、一生懸命なひとの顔というのは、泣いていても、笑っていても、怒っていても、輝いてみえます。きっと「未来からくる演奏家を聴く会」には、そんな「輝き」がたくさんあるのでしょうね。

親の「輝き」を感じ取ることができれば、子どもたちは、キレたりしなくなるに違いありません。

クラシックは、私にとって趣味のひとつであり、そして「生涯学習」の中の、重要な要素のひとつなのです。

「音学」ということを少し書きましたが、音楽を少し学問的に知っていれば、「共通語」を持つことができると思うのです。

音楽を聴いている瞬間は、もちろん楽しいのですが、その後に、仲間たちとその演奏会の批評をするというのも、やはり楽しいものです。
映画などは、まさにそうだと思います。オペラなどなら、「私はミミ、よかったね」くらいのことは言えるかもしれませんが、交響曲などになると、「第2楽章の第2主題が盛り上がっていくところ、あのヴァイオリン、よかったね」 というのは、素人の私にはちょっと難しい。全体の演奏を「よかった」とか「熱い演奏だった」みたいな感想になってしまいます。 それだけでも十分ですが、ちょっとの知識が「共通語」となって、話が進むと思います。

ただ、実際に楽器を練習する以外、 音楽のことを学ぼうと思うと、 ひたすら聴き込むか、誰か個人的に聞くか、書籍に頼るしか方法がないように思います。 「通信教育の講座作ったら?」と言われてしまいそうですが。要するに、今のところ、クラシックにおける「共通語」を共有することが難しく、「会員制」のような高貴な趣味になっているように思います。

[ml-wmc 61] from Aさん

子どもの世界は大人社会の縮図です。(by Eさん)

まあそうでしょうね。

子どもに夢がないのは、きっと大人に夢がないからです。(by Eさん)

夢が無い人がそんなに多いとは思いませんが・・・

大人たちがもっと夢を持ち、あるいは、一生懸命生きていれば、その姿を見て育つ子どもたちに、きっと届くものがあると思います。(by Eさん)

このへんは、それほど単純ではない様に思います。ただ、現在の中高生に関して、一般的に言えることは、その親達のそのまた親(中高生から見れば祖父母)が、戦後の価値観の激変によって、子供のしつけに自信を無くした世代だと思います。そのため、今の親世代は、子供をしつけると言うことを、身を持って体験していないので、旨くしつけられなかったのではないかと思います。今の親世代は、善し悪しはともかく、自分と家族の生活水準を向上させるために、長時間残業も、転勤も厭わず一所懸命生きて来た人たちだと思います。これまで、報道されている限り、犯罪を犯した子供の親達が、ふしだらな生活をしていたと言うより、まじめに一所懸命生きて来てきた人が大部分のようだと見ていますが・・・

親の「輝き」を感じ取ることができれば、子どもたちは、キレたりしなくなるに違いありません。(by Eさん)

半分は同感、半分は上記の通り、物心がつく前から、きちんと躾をしないとだめだと思います。

クラシックは、私にとって趣味のひとつであり、そして「生涯学習」の中の、重要な要素のひとつなのです。(by Eさん)

人である限り、死ぬまで学習は続けたいですね。

音楽を少し学問的に知っていれば、「共通語」を持つことができると思うのです。・・・(中略)・・・
ちょっとの知識が「共通語」となって、話が進むと思います。(by Eさん)

知識はあったほうが良いと思いますが、知識をひけらかしたり、知識が無いから、音楽そのものの楽しみが分かっていないなどと言う様な風潮が、特にクラシック界にあることが、悲しいのです。

ただ、実際に楽器を練習する以外、音楽のことを学ぼうと思うと、ひたすら聴き込むか、誰か個人的に聞くか、書籍に頼るしか方法がないように思います。(by Eさん)

楽器だけではなく、歌でもMIDIでも、実際に演奏を他人に聞いてもらおうとすると、勉強せざるを得ないようなところがありますね。ただ漠然と勉強するより、何か具体的な曲を演奏する立場になって、調べると、天才でもない限り、いやでも楽式論から始まって、種々の知識を得ることになるのではないかと思います。CDなどで、他人の演奏を参考にする時にも、CDに付属する解説書に書いてある言葉をきちんと理解するように勤めれば、自然に勉強してしまうのではないでしょうか。
とは言っても、やはり音楽は、知識ではなく感性だと思います。言語の世界でも文法や文章作法などの知識よりも、相手に、自分の思いがどこまで伝わるかが重要だと思います。

「通信教育の講座作ったら?」と言われてしまいそうですが。(by Eさん)

他人に教えることが、最も良い勉強法とも言われます。やって見られては、いかがですか?

[ml-wmc 62] from Bさん

こういう話題には私は発言せずにいられないので、書かせていただきます。
これは非常に大切なことだと思っています。

ただ、もし音楽を「音学」として、もう少し知識があれば、より楽しめるのではないかというのも、本音です。(by Eさん)

私は、知識の集積と音楽を「楽しむ」こととは別のことだと思っています。音楽を楽しむとは、もっと本能的なものではないでしょうか。例えば私達は、おいしいものを食べた時、心から「ああ、おいしい」と思い、心からその感覚に酔いますね?あるいは、素晴らしい絵画を観た時、心が昂揚しますね?その瞬間を素直に受け入れることで今までの自分と違う何かが生まれるはずです。クラシック音楽においてもそれは同じことではないでしょうか。例えばですが、私はショパンのプレリュードOp.28の中で恋人と別れ、独りかつて楽しい時を過した場所に戻ってくるショパンの切ない気持ちが表現されている曲を演奏する際、まるで憂愁の色合いの夕日に身を浸しているような気がいたします。そういうこととを感じる瞬間は、例えば変ロ長調で、形式がどうしたとか、そういうことは一切関係がないと思っています。

クラシック音楽自体が、どうしても元々西洋のものなわけですから、日本で根付くかどうか、馴染むかどうかというのも、まだ過渡期という気がしないでもありません。(by Eさん)

それは、お気持ちもわかりますが、そこまでお考えを馳せる必要はないのではないでしょうか。音楽とはそもそも、ひとりひとりの心の中に何かを灯すことができればそれで成功だと思います。またその時国境も時間も飛び越えうるものだと思います。だからこそ現在でも、100年も200年も前のヨーロッパの音楽が説得力を持ち得るわけです。

たとえば、「クラシックコンサート」のイメージは、多くの人たちにとって、まだまだ「タキシードに蝶ネクタイ」だと思います。(by Eさん)

そういうスタイルを気に入ってクラシックのコンサートに足を運んでくれる人たちがいればそれはそれで、結構なことだと思います。クラシックにはそういうスタイリッシュな面もたしかにあると思いますから。問題はそこから先何を感じられたか、(別にそれはきれいな格好でなくても構わないと思いますが)ということですよね。

逆に、「ブランド」を頼りにコンサートを選ぶということになりがちです。クオリティという面で安心ですから。(by Eさん)

これはお言葉をかえす様ですけど、(どうかお気を悪くなさらないでくださいね)「ブランド」は必ずしも当てにならないと思います。もちろん評価と実力の一致している人もたくさんいますが、ブランドの上にあぐらをかき、悪い演奏がメディアで垂れ流しにされて平気でいる人もいます。その現状を浄化するには、やはり自分の感性と耳を頼りにすること以外手段がないと思います。Aさんもおっしゃる様に、価値観が人それぞれなのは当たり前ですから、勇気をもって自分の感覚を信じることが最良であると思います。

そのためか、モーツァルトあたりが馴染みやすい。お袋の味噌汁が一番おいしいと感じるように。(by Eさん)

そういう感覚こそが、素晴らしいと思います。是非大事にして下さい。(ホントに!)私自身はモーツァルトは非常に激しい音楽であると思います。以前TVで日本人の著名なピアニストが、「モーツァルトはシンプルで、一音たりとも無駄に出来ないので難しい」と言っていましたが、私はそれだけでは不十分に感じます。(そんなのんびりしたことじゃ音楽にならないんですよ!!)最もシンプルでかつ、そこに最も激しい感情が盛り込まれているので難しいのだと思います。(と、最近気が付きました。)

[ml-wmc 63] from Hさん

ハードロック(ヘビーメタル)は私が好んで聞くジャンルですが、このジャンルの中でオッと思う曲を書く人には楽譜を読むことも書くことも全くできない人が多いことを聞く度に驚かされます。そのような音を聞いてぐっとくる場合には、まさに感性から紡ぎ出された音が聞く人間に響いているのだな、と思えます。

このオッと来る感覚をクラシックにあてはめられるか、と考えてみるとそうでもないように思えます。クラシックを聞いてぐっときたときに、私がハードロックを聞く場合と同様に、最初はその感覚を享受することに楽しみを感じるかもしれません。しかし、録音など音を記す技術が発達した時代の人が音を紡ぎ出すように昔の人がメロディーを考え出してそれを残したとは到底思えません。

音を文字に例えれば、楽譜は昔の人の(特に音楽という表現手段をとったひとの)文章だとおもいます。きっと、作家が血のにじむような努力をして最もふさわしい表現を作品の中にしるすように、昔のひとは音のつながりを何度も何度も修正してやっと完成したものではないのでしょうか?

だから、クラシックが、感性に訴えるものだけで100年も200年も生き残ってきたとは到底考えることができません。クラシック音楽がささいと思えることまで立ち入られ、しゃぶられて来たのは、「筋書きの良さ」の他に「表現の良さ」があるからではないのでしょうか。そして、この「表現の良さ」を楽しむこと(その表現にはどんな効果があるのか、どうやってその表現にたどり着いたのかなどを考えること)に何の異論があるのでしょうか。

こういう私の考え方からすると、クラシック音楽の演奏者は、例えれば文学作品を朗読する人なのです。表現の妙を誰よりも味わいつくして、(演奏者(朗読者)の演奏(朗読)の仕方に対して聴者の好き嫌いはあるにせよ)その表現を如何にして人に伝えるかが重要なのだと思います。

というわけで、まとめ・・・
楽譜を読めないハードロックを演っている友人に、「クラシックのひとって新しい曲を生み出す訳ではないのに、なんでレコード売れるの?」と(皮肉を込めてではなく)素朴に聞かれたときに、返答にこまって考えた結果が以上です。

いろんな人の意見を聞いてみたいです。

[ml-wmc 65] from Aさん

このオッと来る感覚をクラシックにあてはめられるか、と考えてみるとそうでもないように思えます。(by Hさん)

私は、違いがあるとは思いません。バッハやモーツアルトの伝記を読みますとまずは、楽譜とは関係なく演奏して、後で、楽譜を作っています。それも、バッハのように、自分ではなく、奥さんに書かせたりすることもあったわけで、奥さんが、歩く録音機の様なものだったのでは・・・
独奏曲や小人数の合奏のときは、それが可能ですが、大編成の曲を作ろうとするとそうも行きません。だからといって楽譜が必要不可欠だと言うわけでもないと思います。今は、ディジタル録音やMIDIなどの手段が使えますので、楽譜など無くとも間にあいます。
バッハやモーツアルト、特に、新しもの好きのモーツアルトが今生きていれば、楽譜など書かないかもしれませんね。

昔のひとは音のつながりを何度も何度も修正してやっと完成したものではないのでしょうか?(by Hさん)

ヘビメタの世界でも同じですよ。何度も何度も皆で合わせて、やり直し、作り直してコンサートに臨んでいますよ。

だから、クラシックが、感性に訴えるものだけで100年も200年も生き残ってきたとは到底考えることができません。(by Hさん)

これも同意できません。200年前に作られた曲が、100年前に演奏されたときは、その時代の人の感性に合うように手直しをし、200年前とは違った解釈と演奏方法で演奏したと思います。200年前に作られた曲を現在演奏するときには、今生きている人たちに合うように変えられているわけで、特に楽器や演奏会場などは、当時のままとはいかないわけです。演奏方法など楽譜では表しきれない要素もたくさんあります。

クラシック音楽がささいと思えることまで立ち入られ、しゃぶられて来たのは、「筋書きの良さ」の他に「表現の良さ」があるからではないのでしょうか。そして、この「表現の良さ」を楽しむこと(その表現にはどんな効果があるのか、どうやってその表現にたどり着いたのかなどを考えること)に何の異論があるのでしょうか。(by Hさん)

そのようなことを考えることに異議を唱えるつもりはありませんが、そんなことを考えなくとも楽しければ、あるいは感動できれば良いと思います。

こういう私の考え方からすると、クラシック音楽の演奏者は、例えれば文学作品を朗読する人なのです。表現の妙を誰よりも味わいつくして、(演奏者(朗読者)の演奏(朗読)の仕方に対して聴者の好き嫌いはあるにせよ)その表現を如何にして人に伝えるかが重要なのだと思います。(by Hさん)

それは、そのとおりだと思います。でも、それはヘビメタでも同じでしょう。
他のもので、例えるなら、楽譜は、脚本。指揮者は、演出家。演奏者は、俳優。と言うのはいかがですか?

というわけで、まとめ・・・
楽譜を読めないハードロックを演っている友人に、「クラシックのひとって新しい曲を生み出す訳ではないのに、なんでレコード売れるの?」と(皮肉を込めてではなく)素朴に聞かれたときに、返答にこまって考えた結果が以上です。(by Hさん)

クラシックだって新曲はたくさんありますよ。ただ、比較すると過去の財産があまりにも多いだけではないでしょうか。

[ml-wmc 67] from Bさん

クラシックを聞いてぐっときたときに、私がハードロックを聞く場合と同様に、最初はその感覚を享受することに楽しみを感じるかもしれません。しかし、録音など音を記す技術が発達した時代の人が音を紡ぎ出すように昔の人がメロディーを考え出してそれを残したとは到底思えません。(by Hさん)

ヘビーメタルのぐっとくる感覚とは発達した録音技術の時代のたまものばかりではないのではないですか?それこそがその音楽の魂=beat というものでしょう。クラシックにもクラシックの深いビートがあり、メロディだけでなく、そこに伴う響き(和声、とは言いたくないですね。)もがひとを感動させるのだと思います。それは、録音技術とは関係無く、何百年前だろうと、現在だろうと、演奏されるその時に始まるわけですよ。それが、音楽独自の面白いところじゃないですか?

音を文字に例えれば、楽譜は昔の人の(特に音楽という表現手段をとったひとの)文章だとおもいます。きっと、作家が血のにじむような努力をして最もふさわしい表現を作品の中にしるすように、昔のひとは音のつながりを何度も何度も修正してやっと完成したものではないのでしょうか?(by Hさん)

なるほど。面白いですね。ただ私はどちらかというと、K.T.さんと逆に楽譜が文字で、発される音の方が文章(つまり、作曲者の言いたいこと)のように感じますけど。音を創っている瞬間は視覚すら、邪魔になります。(聴覚と、肉体の内的な感覚に精神を集中しますので。)楽譜は作曲家の考えを、音そのものに変換してくれる、手段のように感じます。だからこそ、譜が読めなくとも、つまり変換機を通さなくても、感動的な音楽を書ける人が存在するのではないですか・・?

だから、クラシックが、感性に訴えるものだけで100年も200年も生き残ってきたとは到底考えることができません。クラシック音楽がささいと思えることまで立ち入られ、しゃぶられて来たのは、「筋書きの良さ」の他に「表現の良さ」があるからではないのでしょうか。 そして、この「表現の良さ」を楽しむこと(その表現にはどんな効果があるのか、どうやってその表現にたどり着いたのかなどを考えること)に何の異論があるのでしょうか。(by Hさん)

これは、ちょっと私の言葉が足りなかったと言いますか、伝えきれなかったなと思います。
音楽の理論の部分そのものを否定したわけじゃないのです。偉大なクラシックの作曲家は理論に関しても恐らく常人の理解を超えるほど知り尽くしていたと思います。その点でHさんに全く異論はないです。ただ、それをひとに分析してもらいたくて音楽を書いたわけではないと思うのです。もっと言葉にならない、音でしか表現できない、心の奥の何物かがあって、その衝動が、彼らに音楽を書かせたと思うのです。そしてその素晴らしい財産をわれわれが味わうには、雑念を捨て去り、心を開いて、その中に身を置く以外にないと思うのです。「まず知識を得ないと、音楽が楽しめない」というのは、雑念そのものであると思い、私は憎みます。

表現という言葉がでましたが、私にとっての表現とはピアノの演奏です。演奏に関しての純粋に理論的な部分は必要不可欠であると考えます。

具体的に申しますと、ピアノを通して自分の身体に起こる現象と音楽そのものとの関係について、関節のひとつひとつにいたるまで、またそこを通るエネルギーの流れまで理論的に把握していなければ、実際弾けませんし、私が今現在やれている範囲までのことは説明できます。でも、そんなこと説明したって、ちっとも面白くないし、素敵じゃないと思うんですよ。

表現とはそういった理論的なことを考えている段階をふんで、昇華されなければ、幼稚なままで終ってしまうと思うのです。私は自分のコンサートの時うまくない文章で解説も書きますが、お客様がその曲の情景を想像し、演奏に入り込んでいきやすくなること以外意図的に書かないようにしています。しかし、それを読んだ方にわたしが何にも理論的に考えていないと誤解されることもよくあり、そのたびがっくりきます。

全くなんとかならないものですかね。

[ml-wmc 74] from Eさん

私はクラシック音楽を聴きはじめて、まだ3年にも満たないくらいです。 元々、当時つきあっていた彼女に感化されたというナンパ野郎です。 「ラフマニノフ・ピアノ協奏曲第2番(ピアノ:アシュケナージ)」にはまりまし た。

モーツァルトも好きですが、バッハも好きです。というよりも、現代音楽の難解な辺りを除けば、あまり好き嫌いはありません。クラシック音楽は、うれしいとき、かなしいとき、元気になりたいとき、どんなときにも、心に届く曲があるように思います。バッハの曲を聴くと、とても落ち着いた気持ちになります。モーツァルトの曲を聴くと、とても楽しい気持ちになります。ワーグナーの曲を聴いて、元気を取り戻すことができます。気持ちがぐるぐるしているときに、あえて、ラフマニノフを聴いたりもしますが。

前回のメールで、「生涯学習」ということを少し書きました。 それは、一言で言うなら、「一生懸命になれること、こころから楽しいと思えること」そんな何かを持ち、取り組んでいくことだと思っています。

今の大人たちは、もちろん一生懸命生きてきた人がほとんどです。ただ、「一生懸命=仕事の忙しさ」になっているように思えます。「本当に好きなこと、楽しいと思えること」を自分に言い訳することなくできているか、ということです。仕事とやりがいが一致している人は幸いですが、決してそれほど恵まれた人は多くない。

クラシック音楽(もちろんクラシックに限らずですが)は、「こころから楽しい」と感じられるとてもすばらしいものだと思っています。もっともっとたくさんの人に、そのすばらしさを知ってほしいと思います。

曲を聴いて感動した。その次にくるのは何でしょう?その感動を分かち合いたい。誰かに伝えたい。あるいは、その曲のことをもっと知りたい。自分で演奏したい。

「音学」を学んでから「音楽」を聴く、というよりも、「音楽」を聴いて、「音学」を学びたくなる。感動を分かち合うための「共通語」、曲の作者や構成など・・・それが自然な流れであり、まさに「学習」あるいは「楽習」ということです。
ただし、現状、素人の私からすると、その感動をどこに向けていいのか、どう深めていいのか、よくわからないのです。
以前 Aさんが、「愛好家の底辺を底上げする」というようなことをお書きになっていましたが、私はそのあたりの整備が必要なのではないかと思います。

音楽をこころで感じること。 もちろんそれは音楽だけではなく、とても素敵な宝物です。

[ml-wmc 77] from Aさん

今の大人たちは、もちろん一生懸命生きてきた人がほとんどです。 ただ、「一生懸命=仕事の忙しさ」になっているように思えます。「本当に好きなこと、楽しいと思えること」を自分に言い訳することなくできているか、ということです。(by Eさん)

なるほど、そういう意味では、「仕事が忙しいこと=社会に貢献していること」と理解して、いつのまにか「本当に好きなこと、楽しいと思えること」が仕事だと思い込んだ結果、自分に言い訳することもなくなっているのではないでしょうかね。

仕事とやりがいが一致している人は幸いですが、決してそれほど恵まれた人は多くない。(by Eさん)

上で述べました様に、仕事が趣味だと思い、そう断言している人もある年代の人では、かなりの数、おられますよ。
#その人たち、退職後は、どうなるのでしょうかね。

「音学」を学んでから「音楽」を聴く、というよりも、「音楽」を聴いて、「音学」を学びたくなる。感動を分かち合うための「共通語」、曲の作者や構成など・・・それが自然な流れであり、まさに「学習」あるいは「楽習」ということです。(by Eさん)

全く、同感です。

ただし、現状、素人の私からすると、その感動をどこに向けていいのか、どう深めていいのか、よくわからないのです。(by Eさん)

そうなんですよ。私が、こんな試みを始めたのも、なにか見つかるのでは、と期待してのことです。

以前 Aさんが、「愛好家の底辺を底上げする」というようなことをお書きになっていましたが、(by Eさん)

私は、愛好家の底辺を「広げたい」と言ったのですが、「底上げする」のも出来れば良いですね。

私はそのあたりの整備が必要なのではないかと思います。(by Eさん)

難しい命題ですが、少しでも前進するように、努力したいと思っています。 よろしく、ご協力のほどを m(_ _)m

音楽をこころで感じること。もちろんそれは音楽だけではなく、とても素敵な宝物です。(by Eさん)

いいことを言いますね〜

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音楽の楽しみ方〜批評・分析の功罪〜

[ml-wmc 72] from Hさん

音を文字に例えれば、楽譜は昔の人の(特に音楽という表現手段をとったひとの)文章だとおもいます。きっと、作家が血のにじむような努力をして最もふさわしい表現を作品の中にしるすように、昔のひとは音のつながりを何度も何度も修正してやっと完成したものではないのでしょうか?(by Hさん)
ヘビメタの世界でも同じですよ。何度も何度も皆で合わせて、やり直し、作り直してコンサートに臨んでいますよ。(by Aさん)

ハードロックとかクラシックとかジャンルに分けて考えるのは良くないですね。たしかに、一発目に曲を聴いたときのあの感じ、高揚感はどんな音楽を聞いても同じだと思いました。Aさんの意見をよんで、曲の詰め方なども今と昔と技術の発達はあるにせよ、その根本はそうは変わってないのだなと確認できました。

だから、クラシックが、感性に訴えるものだけで100年も200年も生き残ってきたとは到底考えることができません。(by Hさん)
これも同意できません。200年前に作られた曲が、100年前に演奏されたときは、その時代の人の感性に合うように手直しをし、200年前とは違った解釈と演奏方法で演奏したと思います。200年前に作られた曲を現在演奏するときには、今生きている人たちに合うように変えられているわけで、特に楽器や演奏会場などは、当時のままとはいかないわけです。演奏方法など楽譜では表しきれない要素もたくさんあります。(by Aさん)

クラシック音楽がささいと思えることまで立ち入られ、しゃぶられて来たのは、「筋書きの良さ」の他に「表現の良さ」があるからではないのでしょうか。そして、この「表現の良さ」を楽しむこと(その表現にはどんな効果があるのか、どうやってその表現にたどり着いたのかなどを考えること)に何の異論があるのでしょうか。(by Hさん)
そのようなことを考えることに異議を唱えるつもりはありませんが、そんなことを考えなくとも楽しければ、あるいは感動できれば良いと思います。(by Aさん)

確かにそうですね。でも、そのようなことを考えるひとたち(←きっとわたしはこの部類の人になるのでしょう)のせいで、クラシックが取っつきにくくなっていると思われるのは心外です(そもそも、ここから議論がはじまったはず)。わたしは、「こうやって聞いたら面白いとおもう。」と、誰かに伝えられれば・・・と思っているのですが、おしつけがましいですかね?それから、私の知らないことを知っている人には、そのことを教えてもらって、「こんな楽しみ方もあるんだ」と思ったことも多かったです。

こういう私の考え方からすると、クラシック音楽の演奏者は、例えれば文学作品を朗読する人なのです。表現の妙を誰よりも味わいつくして、(演奏者(朗読者)の演奏(朗読)の仕方に対して聴者の好き嫌いはあるにせよ)その表現を如何にして人に伝えるかが重要なのだと思います。(by Hさん)
それは、そのとおりだと思います。でも、それはヘビメタでも同じでしょう。他のもので、例えるなら、楽譜は、脚本。指揮者は、演出家。演奏者は、俳優。と言うのはいかがですか?(by Aさん)

過去の財産を演奏することと今生まれてくるものを演奏することには大きな違いがあると思います。私の考えを以下にかきます。

人の作ったものを演奏する(せめて指揮する)ことと、自分の作ったものを演奏することは違いがあると思います。解釈をするという時点で、やっぱり演奏家、指揮者、聴衆、色々考えざるを得ないと思うのです。たしかに、過去の作品を聴いて「ああ、いい曲だな」と思える楽しみもあるとおもいます。でも、新曲にはなくて過去の作品だけに対しての楽しみ方は、やはり批評することだとおもうのです。
私は、とても勇気のいることですが、できたら人と曲の善し悪しを細部にわたって議論してみたい(している相手も数は少ないけどいます)。むろん、人がどう思うかについて、一刀両断するつもりはないし、そのような議論をしない人を軽視する気は全然ありません。だけど、さっきも書きましたが「こうやって聞いたら面白いと思う。」といってしまったら、それは失礼なことになってしまうのでしょうか?それが、おしつけがましくって、クラシックの閉鎖性みたいになってしまうのでしょうか?

というわけで、まとめ・・・
楽譜を読めないハードロックを演っている友人に、「クラシックのひとって新しい曲を生み出す訳ではないのに、なんでレコード売れるの?」と(皮肉を込めてではなく)素朴に聞かれたときに、返答にこまって考えた結果が以上です。(by Hさん)

クラシックだって新曲はたくさんありますよ。ただ、比較すると過去の財産があまりにも多いだけではないでしょうか。(by Aさん)

これに関しては、絶対量(過去の作品と新作をあわせて)で確実にクラシックは少ないと思います。だから、「クラシックのひとって新しい曲を生み出す訳ではないのに、なんでレコード売れるの?」という疑問は、やっぱりついてまわるのでは?

[ml-wmc 73] from Aさん

確かにそうですね。でも、そのようなことを考えるひとたち(←きっとわたしはこの部類の人になるのでしょう)のせいで、クラシックが取っつきにくくなっていると思われるのは心外です(そもそも、ここから議論がはじまったはず)。わたしは、「こうやって聞いたら面白いとおもう。」と、誰かに伝えられれば・・・と思っているのですが、おしつけがましいですかね?それから、私の知らないことを知っている人には、そのことを教えてもらって、「こんな楽しみ方もあるんだ」と思ったことも多かったです。(by Hさん)

前にも書きましたが、私自身趣味で音楽理論を勉強しましたから、その意味では、同類(失礼)かも知れませんね。(^o^)y

人の作ったものを演奏する(せめて指揮する)ことと、自分の作ったものを演奏することは違いがあると思います。(by Hさん)

それはそうですよ。だけど、それは、ジャンルによる違いではないでしょう?

解釈をするという時点で、やっぱり演奏家、指揮者、聴衆、色々考えざるを得ないと思うのです。たしかに、過去の作品を聴いて「ああ、いい曲だな」と思える楽しみもあるとおもいます。でも、新曲にはなくて過去の作品だけに対しての楽しみ方は、やはり批評することだとおもうのです。(by Hさん)

えっ!今の作品は、批評する楽しみが無いのですか?私は、小室のやつ、また同じ曲を作って稼いでやがるなどと酒の肴にしてますよ。

私は、とても勇気のいることですが、できたら人と曲の善し悪しを細部にわたって議論してみたい(している相手も数は少ないけどいます)。むろん、人がどう思うかについて、一刀両断するつもりはないし、そのような議論をしない人を軽視する気は全然ありません。だけど、さっきも書きましたが「こうやって聞いたら面白いと思う。」といってしまったら、それは失礼なことになってしまうのでしょうか?それが、おしつけがましくって、クラシックの閉鎖性みたいになってしまうのでしょうか?(by Hさん)

私は、曲の善し悪しは、無条件には、議論したくありません。善いとか悪いとかは、判断の基準をどうするかの議論になってしまうようで、善悪の判断基準について合意が得られれば、その基準に照らして善いか悪いかは議論しても良いと思います。
好き嫌いなら、話は別です。

クラシックだって新曲はたくさんありますよ。ただ、比較すると過去の財産があまりにも多いだけではないでしょうか。(by Aさん)
これに関しては、絶対量(過去の作品と新作をあわせて)で確実にクラシックは少ないと思います。だから、「クラシックのひとって新しい曲を生み出す訳ではないのに、なんでレコード売れるの?」という疑問は、やっぱりついてまわるのでは?(by Hさん)

過去の作品と新作をあわせた絶対量なら、圧倒的にクラシックの方が多いですよ。ただ、古い曲で、いまだに残っている曲は少ないでしょうが。
偶々ある時点で、演奏されている量は、その時点でのはやりのジャンルが一番多いでしょうね。

[ml-wmc 76] from Hさん

Aさんの意見をよんで、曲の詰め方なども今と昔と技術の発達はあるにせよ、その根本はそうは変わってないのだなと確認できたのは、私にとって大きな収穫でした。

音を文字に例えれば、楽譜は昔の人の(特に音楽という表現手段をとったひとの)文章だとおもいます。きっと、作家が血のにじむような努力をして最もふさわしい表現を作品の中にしるすように、昔のひとは音のつながりを何度も何度も修正してやっと完成したものではないのでしょうか?(by Hさん)(by Aさん)
なるほど。面白いですね。ただ私はどちらかというと、Hさんと逆に楽譜が文字で、発される音の方が文章(つまり、作曲者の言いたいこと)のように感じますけど。音を創っている瞬間は視覚すら、邪魔になります。(聴覚と、肉体の内的な感覚に精神を集中しますので。)楽譜は作曲家の考えを、音そのものに変換してくれる、手段のように感じます。だからこそ、譜が読めなくとも、つまり変換機を通さなくても、感動的な音楽を書ける人が存在するのではないですか・・?(by Bさん)

私がこだわりたいのは、書いた本人(またはそれに準ずるひと・直接曲について指導をうけるとか)が演ずるばあいと第3者が演ずる場合は違うのではないかということです。楽譜があってそれを忠実に再現したところで、書いた人にはなれないとおもうのです。だからこそ、「解釈」がうまれて、それに対する「批評」もあるのでは。そういういみで、楽譜が文章で、演奏する人はその文章を朗読するひとと例えてみました。

これは、ちょっと私の言葉が足りなかったと言いますか、伝えきれなかったなと思います。音楽の理論の部分そのものを否定したわけじゃないのです。偉大なクラシックの作曲家は理論に関しても恐らく常人の理解を超えるほど知り尽くしていたと思います。その点でHさんに全く異論はないです。ただ、それをひとに分析してもらいたくて音楽を書いたわけではないと思うのです。もっと言葉にならない、音でしか表現できない、心の奥の何物かがあって、その衝動が、彼らに音楽を書かせたと思うのです。そしてその素晴らしい財産をわれわれが味わうには、雑念を捨て去り、心を開いて、その中に身を置く以外にないと思うのです。「まず知識を得ないと、音楽が楽しめない」というのは、雑念そのものであると思い、私は憎みます。(by Bさん)

分解すれば何らかの構造が現れて、それで分かった気になってしまうということですか。
たしかに。分解しなくても、音楽は楽しめると私も思います。

[ml-wmc 80] from Bさん

私がこだわりたいのは、書いた本人(またはそれに準ずるひと・直接曲について指導をうけるとか)が演ずるばあいと第3者が演ずる場合は違うのではないかということです。 楽譜があってそれを忠実に再現したところで、書いた人にはなれないとおもうのです。だからこそ、「解釈」がうまれて、それに対する「批評」もあるのでは。そういういみで、楽譜が文章で、演奏する人はその文章を朗読するひとと例えてみました。(by Hさん)

おっしゃること、全くその通りと思います。それにプラスして、私は「演奏する」という行為に「作曲する」ことと同じくらい表現としての価値があると思っているのです。

「演奏する」こと、それは全く能動的な、人間ひとりのエネルギーの全てを使う素晴らしい表現形態です。そしてその行為があってはじめて、作曲という行為が生きてくるのだと思っています。だから楽譜を忠実に再現した上でも、(これは絶対に必要なことです!!)各演奏家の個性の違いが、新たなる面白さを生むのではないでしょうか。

「書いた本人(またはそれに準ずるひと・直接曲について指導をうけるとか)が演ずる」演奏について触れられましたが、そういう演奏が、作曲家本人に指導を受けていない演奏に優るとする考えには私は反対です。

具体的な例では、ラヴェルに直接師事し、全ての曲について細かい指導を仰いだ ただひとりのピアニストとして有名な、ヴラド・ペルルミュテルという人がいます。(現在確か90歳を過ぎ、まだ演奏活動もやっていたと思います)彼の演奏(CDと生演奏の両方)を聴き、ラヴェル演奏法の著作を読みまして、確かにラヴェルの教えを忠実に再現しているのだなと思いました。そしてその点で彼はラヴェル演奏の絶対的権威です。
しかし、演奏の表現の面白さという点では彼はナンバーワンではないなと思います。それは、演奏というものは、作曲者の言うとおりにすれば良いというものでなく、もっと自発的な、楽譜から、音楽を読み取る力が要求されるからだと思います。

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