花供養祭は、その昔、野山より花木を採取し大山街道を搬路として、町民に供給していた頃
  より行われていました。その頃は、杉の木を伐採し5寸角の供養塔が建てられ大正10年頃、
  花卉生産は進み畑作に変わってきました。これを転機に生産者も激増したため、意志の結集、
  合理化を図るため馬絹花卉生産組合が生まれました。組合結成後昭和11年の2・26事件前後が
  最盛期で、東京・横浜地域の花の需要を満たしておりました。
   以後、昭和38年8月17日、馬絹の泉福寺境内に組合員の意志を結集し永く花の霊に感謝し慰めるため、
  根府川石で花供養塔と併せて墓碑「花供養塔のいわれ」を建立しました。
  昭和47年4月1日、高津区・宮前区の4農協が合併し川崎市中央農協となり川崎市中央農協花卉温室協議会
  (花卉部会・温室部会)が発足し、平成9年10月1日には川崎市内4農協が合併しJAセレサ川崎となり花卉部
  馬絹支部・中部支部となりました。
  都市化の中で花を愛し、栽培し技術の継承と今後も、馬絹の花作りの名声を高めるため、
  後継者育成等に努めながら現在に至っております。